舒明(じょめい)天皇5年頃(633頃)、琴御館宇志丸(ことのみたちうしまる)が唐崎に居住し、庭前に松を植え“軒端(のきば)の松”と名付けたことに始まります。
中世の山王(さんのう)曼荼羅(まんだら)や名所絵図、近世の山王祭礼図屏風や浮世絵等にも数多く描かれています。 記録の上では初代の松は天正元年(1573)に大風によって倒れ、二代目は天正19年(1591)当時の大津城主 新庄直頼公等により植えられました。 |
享保19年(1734)に発行された『近江輿地志略(おうみよちしりゃく)』には、「樹高はそれほど高くなく、枝葉が四方に繁り七間四方(12.6m×12.6m)の大きさで雨宿りが出来る。姿形がまことに均整がとれて美しい」と書かれています。植栽から約140年経っておりますが、とりわけ巨大ということではなかったようです。 |
しかし、それから約100年後に描かれた浮世絵「唐崎夜雨図」では枝が琵琶湖まで達し、同時期の版画にも枝の東西54m・南北68.4mという注記があり途方もない大きさになっていたことがわかります。さらに明治初期(『近江輿地志略』から130年後)の由緒書には高さ27m(後に大風で折れて10m)幹廻り11m、枝東西72m・南北86mと記録しています。その頃の写真が長崎大学附属図書館に所蔵されています。
|
明治20年に二代目の実生である現在の霊松が後継樹として植えられます。それは年々樹勢が衰えてきたためであります。境内地一杯に根が拡がり根詰り状態になっているのを改善したり、施肥をしたりと手を尽くしましたが、ついに大正10年その名を馳せた霊松も枯れ、移霊祭を斎行して三代目霊松として引き継がれました。 |