八幡堀巡り、ラコリーナウォーク 2017/05/12



八幡堀散策


天気予報では、今年最高の暑さになるとのこと。


近江八幡駅から・・・


お馴染みの道をまっすぐ。




街並み保存地区へ。


 朝鮮人街道の名前は、江戸時代に徳川幕府の将軍就任に対して祝辞を述べるために朝鮮から派遣された使節(朝鮮通信使)が通行したことに由来する。ソウルから江戸まで約2,000qにもなる。使節の通行は、1607年(慶長12)から1825年(文化8)まで10回に及んだ。その区間は野洲市行畑で中山道と別れ、近江八幡や能登川を通って、彦根市鳥居本で再び中山道に合流した。使節は多い時には500人規模で組織され、往復で約1年もの歳月を費やしたと言われている。大津(昼食)→守山(宿泊)→近江八幡(昼食)→彦根(宿泊)→鳥居本の行程をたどるのが通例だった。


 旧伴家住宅は7代目伴庄右衛門能尹が伴庄右衛門家本家として、文政10年(1827)より天保11年(1840)の十数年をかけて建築したもの。明治時代になって当時の八幡町に譲渡してから小学校・役場・女学校と変遷した。戦後は近江兄弟社図書館として使用され後に近江八幡市立図書館となり、移転に伴い平成9年にその役目を終了した。その後の整備事業を経て、平成16年4月より市立資料館の一部として開館した。




 郷土資料館は近江商人(八幡商人)の代表的な人物である西村太郎右衛門の宅地跡にあり、現在の建物は旧近江八幡警察署を利用してる。館内は、考古・民俗・文書などの資料が展示されており、毎年春と秋には特別展が開催される。
 *西村太郎右衛門(安南屋)
 慶長8年(1603年)に西村家2代目の次男として生まれた彼は、20歳の時に角倉了以の御朱印船で長崎から安南(ベトナム)へと旅立つ。
 異国の地で商いに取り組み25年(正保4年・1647年)、帰国のため長崎まで帰ってくるが、時は鎖国の世であり上陸は許されず、安南の地で没した悲劇の商人である。
 彼が、長崎で故郷への思いを託し、絵師(菱川孫兵衛)に描かせ、日牟禮八幡宮へ奉納した絵馬「安南渡海船額」は国の重要文化財に指定されている。




時代劇がそのまま撮影できる。




 森家の初代五郎兵衛は、伴家(現・近江八幡市立資料館)に勤め、別家を許され、煙草や麻布を商った。やがて、呉服・太物など取扱い商品を増やし、江戸日本橋や大阪本町にも出店するなど活躍した。
 昭和6年(1931)に村野藤吾設計により東京日本橋室町に地上7階建ての「近三ビル」(屋号・近江屋の「近」、三左衛門の「三」より命名)を建築し、現在も近三商事として健在。




 見越しの松・うだつ永原町通りや新町通りなどの市内に残る古い商家の町並みは、県下で初めて国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。その新町通りの江戸末期から明治にかけて建てられた豪商の邸宅では家を火災から守るために、屋根にうだつを」あげた。当時の佇まいを残す家並みの塀越しにのぞく「見越しの松」が通りにひときわ風情を添えている。






 旧西川家住宅は典型的な近江商家の面影を残す。店の部分と居宅部分に分かれており、突き出した座敷玄関を持っているのが特徴です。壁を黒く塗り、トガ材を使った京風建築の2階建家屋は、どっしりとした構えで、江戸時代中期頃の建築と推定されている。見かけより奥行きが広く、庭に植えられた木々の周りに飛び石が巡らされ、地面には苔が生えている。近江商人の隆盛ぶりを偲ぶことができ、国の重要文化財に指定されている。
 西川利右衛門について
 西川家は屋号を大文字屋と称して蚊帳や畳表を商い、江戸、大坂、京都に店を構えた。  現在資料館として入館できる施設は3代目によって宝永3年(1706年)に建てられたもので、昭和58年1月に国の重要文化財に指定され、昭和60年10月より33ヶ月の工期を経て、改修された。
 昭和5年に後継者が無いまま11代目が亡くなり、約300年にわたって活躍した西川家は終焉を迎えた。










八幡堀に到着。




下に降りて川辺を歩く。











おしゃれな店が続く。


結婚式の前撮りに遭遇。


おめでとうございます。








 白雲館(旧八幡東学校)は明治10年(1877)に建設された学校建築物で、八幡商人の熱意と区民の協力により、西洋建築の様式と、日本の伝統技術をとり入れ建築されたもの。




しばしの休憩。








悲劇の武将豊臣秀次の居城。


八幡掘はテレビ、映画でのロケ地。


















1987年のNHK朝ドラ「はっさい先生」の舞台は近江八幡。若村麻由美がデビュー。






出発です。



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